静かな功徳、紅の帯― 松本夫妻が見守る、南吉の故郷と矢勝川の風景 ―


残したい故郷の風景と、5人のまなざし

愛知県半田市岩滑(やなべ)は、童話作家・新美南吉が多くの物語を生んだ故郷です。
かつてこの地には、ホタルが舞い、田畑のあぜに彼岸花が咲く、素朴で心豊かな風景が広がっていました。しかし、時代の移ろいとともに、その原風景は少しずつ姿を変えてきました。

それでも今なお、南吉の心が息づくこの場所で、風景や文化を大切に守り、未来へつなごうと静かに歩み続ける人々がいます。
ここから始まるのは、そんな5人それぞれの、小さくてあたたかな「やなべのおはなし。」です。


 

■プロフィール

松本 勉(まつもと つとむ)
1942年生まれ。滋賀県出身。結婚を機に、妻・美穂子さんの故郷である半田市岩滑へ移住。新美南吉の生家管理に長年携わるとともに、「矢勝川の風景を残したい」とサイクリングロードの美化、ヒガンバナや四季の花の手入れを行っている。


■インタビュー

南吉との縁は「生家の隣から」、そして地域活動へ

松本勉さんが岩滑の地を初めて訪れたのは、結婚がきっかけだった。美穂子さんの実家が南吉の生家のすぐ向かいにあったことから、勉さんは「狸の里(滋賀)から狐の里へ来た、珍しい人だよ」と冗談めかして語る。

昭和46年頃から生家の管理を手伝うようになり、これが南吉との本格的な関わりの始まりとなった。当時はまだ記念館もなく、南吉をまちづくりの軸に据えようという機運は、ほんの一部の人々の間で芽生えつつあった“黎明期”だった。

美穂子さんの父は24年間市議会議員を務めた人物で、その選挙活動を手伝ったことが、夫妻を地域活動へと引き寄せた。「地理もわからないまま選挙カーを運転して、武豊町に迷い込んだこともある」と勉さんは笑いながら当時を振り返る。

その折に義父が語った「この町には南吉しかない」という言葉は、今でも心に強く残っているという。そんな義父の姿を通して、地域へ向き合う姿勢も自然に学んでいった。

義父は南吉より4歳年下で、家も向かい同士。南吉がふらりと訪れては、鼻をつまんで話すような声で「藤九郎君、明日名古屋へ遊びに行こう」と誘ってくれたという。親しみやすい南吉の姿が、今に伝わっている。


生家を守る日々が育んだ、地域との新たな縁

昭和62年、生家の復元工事が完了すると、美穂子さんの母から管理を正式に引き継いだ。「遠くから来る人のために、できる限り開けておきたい」という思いから、電車の本数が少ない時間帯でも、訪問者に合わせて家を開けた。

芳名帳には、沖縄から北海道まで、日本中から訪れた人々の名前が記されている。子どもに読み聞かせた『ごんぎつね』の記憶を胸に、この地を訪れる人々の存在が、夫妻の励みとなってきた。


矢勝川と、紅の景観

夫妻が矢勝川の活動に関わり始めたのは平成14年頃だった。サイクリングロードが完成し、川沿いに咲き誇った真紅のキリシマツツジの景色に心を奪われたという。

しかし、その美しい光景は長く続かなかった。平成18年頃、キリシマツツジはほぼ枯れて姿を消し、川沿いの風景は荒れていった。

「もう一度、あの景色を取り戻したい」

その思いから、美穂子さんは平成18年10月9日、ひとりで彼岸花の植栽を始めた。しかし、勝手に作業をするわけにはいかないと、勉さんは申請作業を進める。ところが、個人が河川敷に手を入れる前例はなく、県の事務所からは「個人に許可は出せません」、警察からは「草刈り作業は工事ではないので、車の許可書は出ません」と言われ、何度も壁にぶつかった。

それでも諦めず市に相談した結果、多くの人のサポートを得て、フォーマットのない手書きの申請書に地図や写真を添え、ようやく作業が認められた。ここから、夫妻の長い挑戦が正式に始まった。


300万本への軌跡と、地域の温かさ

許可が下りてから、夫妻の生活は一変した。仕事を終えると矢勝川へ向かい、固い地面を掘り起こし、石を除き、つるはしが折れるほど作業を続けた。

「始めたのは妻ですが、気づいたら自分が8割を担っていました」

勉さんはそう笑う。

作業中には、地域の人が声をかけたり、差し入れを持ってきたりすることも多く、その温かさが大きな原動力になった。ある時、大量の彼岸花の球根が手に入るきっかけがあり、活動はさらに加速した。

文字通り、どこにでも出向き、時には夜にライトを当てて作業を続け、球根を守るために急いで駆けつけることもあった。「よくあそこまでできたものです」と、夫妻は振り返る。

矢勝川の彼岸花の起点は、小栗大造さんの活動にある。その後、「矢勝川の環境を守る会」などが中心となり、地域全体の取り組みとして維持・植栽が続けられてきた。松本夫妻も、その一端を担ってきた。

多くの人の関わりが重なった結果、現在、矢勝川周辺では300万本を超える規模の彼岸花が咲き誇っている。


次世代へつなぐ風景

活動開始からまもなく20年。夫妻は年齢を重ね、日々の草刈りや管理は大きな負担になってきた。彼岸花は植えっぱなしでは分球して小さくなるため、掘り起こして植え替える作業が欠かせないが、今の体制では手が回りきらず、不安も口にする。

それでも願いは変わらない。

「矢勝川の風景を未来に残したい」

特に弘法橋周辺の景色には、美穂子さんの深い愛着と、それを支え続けてきた勉さんの思いがある。

夫妻が口をそろえて名前を挙げるのが、地域の取り組みをまとめ、矢勝川の景観づくりを後押ししてきた榊原幸宏さんだ。

「あの人が思いをつないでくれたからこそ、ここまで続けられた。そのバトンを次の世代へ渡すことが、今の私たちの役目だと思っています」

「来る人に“きれいだなあ”と喜んでもらいたい」

――その気持ちで始めた小さな行動が、矢勝川を象徴する大きな風景となった。松本夫妻の静かな情熱は、南吉の物語のように力強く、この地で受け継がれていく。


*矢勝川の環境を守る会

『ごんぎつね』の風景を再現しようと、小栗大造さんが矢勝川堤に彼岸花を植え始めたことから活動が始まる。榊原幸宏さんをはじめ、地域の人々と共に草刈りや植栽を重ね、300万本の彼岸花が咲く景観が生まれた。
矢勝川の環境を守る会は、故郷の自然と景観を守る地域の輪として活動を続け、2025年3月をもって休会中。