新美南吉の童話と自然の息吹を未来へ繋ぐ語り部― 大橋秀夫さんが見つめ続けた「童話の森」 ―


残したい故郷の風景と、5人のまなざし

愛知県半田市岩滑(やなべ)は、童話作家・新美南吉が多くの物語を生んだ故郷です。
かつてこの地には、ホタルが舞い、田畑のあぜに彼岸花が咲く、素朴で心豊かな風景が広がっていました。しかし、時代の移ろいとともに、その原風景は少しずつ姿を変えてきました。

それでも今なお、南吉の心が息づくこの場所で、風景や文化を大切に守り、未来へつなごうと静かに歩み続ける人々がいます。
ここから始まるのは、そんな5人それぞれの、小さくてあたたかな「やなべのおはなし。」です。


南吉との出会い、そして「童話の森」整備へ


■インタビュー

南吉との出会い、そして「童話の森」整備へ

大橋秀夫さんが自然観察会に参加するようになったのは、40歳を過ぎた頃だった。郵便局員として働きながら、休日には自然に触れるなど、もともと自然への興味は強かった。観察会で新美南吉記念館を訪れることが何度かあり、そこで南吉の童話に触れるようになる。

物語の中にさりげなく描かれる植物や生き物の描写に心を掴まれ、童話「たれのかげ」にちなみ、新美南吉記念館の角型の郵便ポストを丸型ポストに替えたり、南吉の童話に登場する生き物が印刷された切手も集めるようになった。やがて興味は仕事へとつながり、「ごんぎつね」をテーマにした写真付き切手の企画を手がけるなど、仕事の中にも自然と南吉の影響が入り込んでいった。

「童話の森」に観察路をつくりたいと考えたのは、そうした流れの中で自然なことだった。最初はホームセンターでトラロープを買い、手作りの散策路をつくってみた。しかし新美南吉記念館から「トラロープは見栄えが悪いので、カラーのロープに替えて欲しい」と言われ、ロープを取り替えたこともあった。

「南吉作品に描かれた自然の魅力が、道づくりの大きな原動力だった」と大橋さんは語る。平成3年(1991年)には自然観察の講習を受け、正式に半田での活動を開始。週末のたびに森へ入り、生き物の痕跡を記録し、季節ごとの植物を追いかけ、森の変化を丁寧に見つめてきた。


7冊の自費出版が生んだ「南吉自然学」という世界

大橋さんはこれまでに、『新美南吉と自然観察』をはじめ、『童話の森の四季』『新美南吉と自然雑記帳』『新美南吉の童話から読む自然と生き物』など、7冊の本をすべて自費で出版してきた。

平成22年に1冊目を出してから十数年。パソコンが壊れたり、視力が低下したり、「もうさすがに本づくりは終わりにしよう」と思った時期もあったという。

しかし、童話を読み返し、森を歩いていると、新しい発見が必ず訪れる。「これは誰かに伝えなければ」という思いが心の奥で静かに湧き上がり、再び机に向かってしまう。「南吉の作品には、読むたびに“新しい自然”が出てくるんです」と大橋さんは微笑む。

現在は8冊目となる『新美南吉を歩く 地元の自然描写』を執筆中だ。牧書店の新美南吉全集を偶然手にしたことが、自身の故郷の風景と物語がつながっていると気づいた原点でもある。

「あの本を読まなければ、ここまで自然観察にのめり込むことはなかったかもしれませんね」


南吉作品に息づく自然の真実を読み解く

大橋さんの活動の中心にあるのは、南吉の童話に描かれた自然が「実際の風景では何だったのか」を読み解くことだ。南吉の描写は細やかで、現地の自然と比べても納得できる部分が多い。

だからこそ、物語に「千鳥」と出てきても、「実際に南吉が見ていた鳥は、近くの池にいたカイツブリではないか」といった読み解きが生まれる。

作品に出てくる自然の姿を現地の環境に重ねていくと、言葉の選び方や当時の呼び名の違いなど、南吉ならではの「解釈のズレ」も見えてくる。こうした発見こそが、大橋さんが長年続けてきた探究の面白さになっている。

「童話の森」にあるイスノキには虫こぶがつき、「いぼのき」と呼ばれる特徴がある。南吉作品に登場する「いぼいぼ渡れ」という表現と照らし合わせると、ふと物語の風景が立ち上がるような瞬間があるという。

さらに岩滑には、南吉が生きていた頃と変わらない農村風景がまだ残っている。「はざかけ」の風景が残り、童話の森には準絶滅危惧種のネズミサシが自生するなど、多様な植生が息づいている。

男の子が生まれるとハンノキを、女の子が生まれると桐の木を植えるといった昔の風習も、作品に登場する自然観と重なる点が多い。「南吉作品の自然は、目で見たままを写した記録でもあり、土地の文化そのものでもある」と大橋さんは語る。


未来へ繋ぐ、星降る森の夢

大橋さんには、これから実現したい夢がある。20年ほど前、「童話の森」で星空観察会を開き、流星群の夜に南吉の童話を読みながら森のステージに寝転がるという特別な時間を過ごしたことがあった。

「あの光景を、もう一度多くの人と共有したい」

「流れ星の童話を読んでから空を眺める。そんな体験ができたら最高でしょうね」

自然と文学が重なり合う夜を、もう一度つくってみたい――それが現在の夢だ。

「故郷の風景を残したい」と活動を続ける大橋さんの長年の地道な取り組みは、半田市岩滑が誇る自然と文化遺産を未来へつなぐ、大切な架け橋になりつつある。