残したい故郷の風景と、5人のまなざし― 谷地に光を呼び戻す人・土本修二
残したい故郷の風景と、5人のまなざし
愛知県半田市岩滑(やなべ)は、童話作家・新美南吉が多くの物語を生んだ故郷です。
かつてこの地には、ホタルが舞い、田畑のあぜに彼岸花が咲く、素朴で心豊かな風景が広がっていました。しかし、時代の移ろいとともに、その原風景は少しずつ姿を変えてきました。
それでも今なお、南吉の心が息づくこの場所で、風景や文化を大切に守り、未来へつなごうと静かに歩み続ける人々がいます。
ここから始まるのは、そんな5人それぞれの、小さくてあたたかな「やなべのおはなし。」です。
故郷の谷地にホタルを呼び戻す85歳
― 土本修二さんが紡ぐ光の物語 ―

■プロフィール
土本 修二(つちもと しゅうじ)
1940年生まれ。鉄工所を退職後、自然、特にホタルの再生に情熱を注ぐ。
10年以上にわたり、新美南吉記念館谷地の環境整備とホタルの飼育を続け、かつての美しい風景を取り戻すために日々活動している。地域では「ほたるおじさん」として紹介されることも多い。
■インタビュー
ホタルとの出会い、そして岩滑との縁

土本修二さんの自宅には、大小20個ほどのガラスケースが並ぶ。そこで育てているホタルは約2,000匹。湿度や温度を保ちながら餌となるカワニナを管理し、幼虫の成長を確かめるのが毎朝の日課だ。
「来年6月には、この子たちを谷地に放す予定なんですよ。10年前には9万匹育てたこともありました」
笑顔でそう語る土本さんにとって、ホタルの飼育は喜びであり、日常そのものでもある。
もともと岩滑出身ではない土本さんが、この地に深く関わるようになったきっかけは、子どもが教えてくれた南吉の詩「貝殻」だった。「この地域にどんな風景があって、どんな人がいるのだろう」と訪れた岩滑は、どこか懐かしく、どこか温かい場所だったという。
やがて子どもが中学校に上がる頃に家族で訪れる機会も増え、自然と地域の人たちと親しくなっていった。
本格的に関わり始めたのは、38歳から40歳頃のこと。公民館の職員として働くようになり、地域の行事や講座に携わる中で、岩滑の自然や文化について深い興味を持つようになった。大石源三さんといった地元の研究家との出会いもあり、そこで語られる昔の岩滑の姿や南吉の話を聞くたびに、この地への思いは強くなっていった。
「岩滑サブレ」の企画に携わったのもこの頃で、30代後半から50代にかけて、地域のためにできることを少しずつ増やしてきたという。
ホタルを呼び戻す挑戦のはじまり
ホタルの活動を始めたのは約15年前。地域の年長者たちが「最近ホタルを見かけなくなって寂しいな」と話す声を耳にしたときだった。
「じゃあ、みんなでホタルを飛ばそう」
そうして、ホタルを育てて放すイベントを企画し、実行してみた。思うような結果は出なかったが、その挑戦が地域の空気を変えた。「来年もやってみようか」と仲間たちが集まり、2年目にはわずかに光が戻った。小さな成功が、次への活力になった。
本格的な活動へ踏み出したのは2012~2013年頃。当時、榊原幸宏さんから「(新美南吉記念館そばの)谷地でホタルを育てられないだろうか」と相談を受け、阿久比や安城、豊田へ視察に行くことになった。
谷地について「ここは環境がいい」と背中を押され、豊田からホタルの幼虫を分けてもらい飼育が始まった。
しかし当初の谷地は、草が生い茂り湿地は荒れ放題で、ホタルが住める環境からはほど遠い姿だった。
「それなら俺がやるよ」
そう手を挙げた土本さんは、かつて田んぼ仕事で培った水路整備の経験を活かし、草刈りから泥上げ、排水路づくりまで、毎日のように作業を続けた。
「冬は凍って大変でしたよ。でも毎日来ないと気が済まなくてね」
スコップが穴だらけになるまで使い込み、トラックで土を運んでくれる協力者も現れ、足場ができ、水路が整い、少しずつ谷地の地形は“ホタルが住める谷”の姿を取り戻していった。
丈夫な木道を敷き、澄んだ水の流れが戻ってきた頃には、活動は地域一体での取り組みへと広がっていった。その成果は確かなものとなった。ヘイケボタルが定着し、やがてゲンジボタルも飛び始め、ここ数年では谷地で自然発生したホタルが30匹ほど確認されている。
「あの光を初めて見たとき、胸が熱くなりましたね」
心を動かした一匹の光

谷地を彩ったもう一つの出来事が、アサギマダラの飛来だ。「ここをアサギマダラの道にしたい」とフジバカマを1,000本植えると、見事に翌年から飛来が始まり、谷地の自然はさらに豊かなものとなった。
土本さんがホタルを愛し続ける理由には、忘れられない瞬間がある。ホタルの飼育を始めたのは、妻が亡くなる1年前。そして一周忌の日、育てていたケースの中で、たった1匹だけが強く光った。
「ほかのホタルは一切光らず、その一匹だけが……。あれを見た瞬間、妻が帰ってきてくれたんだと思いました」
その光は土本さんの心に深く刻まれ、ホタルは「命をつなぐ存在」となった。
「ホタルは1億年前から光っている。あの小さな光には、人の心を動かす力があります」
これからの夢と願い
現在85歳。「体が続く限り、あと5年くらいは頑張れると思っていますよ」と笑うが、その姿は今なお現役そのものだ。活動は各地にも広がり、仲間も増えた。15年で谷地は劇的に変わった。
しかし、土本さんが見つめる未来は、さらにその先にある。
「草をもう少し刈って、水路を整えて、カワニナをもっと増やせば、10万匹の幼虫だって夢じゃない」
そして願いはただひとつ。
「20年、30年後も、この場所が“あのまんま”で残っていてほしい。ホタルが自然に飛び交い、みんなが『きれいだなあ』と言える場所であってほしい」
小さな光を未来へつなぐため、土本修二さんは今日も谷地へ足を運び、静かに、そして変わらぬ情熱でホタルの命を育み続けている。
